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其の四 九州の覇者になりそこねた男・大友宗麟像
2008年01月21日
一時期、九州をほぼ制圧する勢いだった大友宗麟。鎌倉時代以来の名家を引き継いだ希代の英雄も、その晩年は寂しいものだった。大分駅前という一等地にありながら、この銅像があることに気づくことが少ないように感じるのは、そういた寂しい生涯の象徴のせいか。
大友家といえば、名家である。家柄は源氏の直系といわれ(実際は違うらしい)、血統を重んじる中世にあって、九州古来の御家人にとってはちょっとばかしキラビやかな存在であった。鎌倉時代はじめに相模から領地である豊後に移住すると、元寇や南北朝の争乱などでは、その時代の当主は九州のキーマンとなった。
宗麟の時代、これほど家系が古く、確かな一族は武田氏や島津氏、佐竹氏などごくわずか。成り上がり者につぶされていく名家が多い中、それでも生き残った血統はさらに高貴になっていく。
その大友家の全盛期を築いたのが、宗麟だ。
21才で家督を継ぐと、連戦連勝。宿敵・肥後の菊池氏を滅ぼし、門司で毛利氏と争い撃退。一時は、豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、四国の伊予半国を領有する大領主になった。
だが宗麟が「この世の春」を謳歌したのは、わずかな期間でしかない。
肥前の龍造寺氏をはじめ家臣が次々と離反するなど、栄光は長く続かない。これだけのパワーを握りながら、離れていく家臣が多いとは人間的に何らかの欠陥があったことは明白だ。
大友やばし! が決定的気になったのは、島津攻めのために日向に兵を進めたとき(耳川の合戦)。倍する兵力でありながら、島津に返り討ちにあった。九州を併呑する勢いが一気に失速し、あれよあれよという間に窮地に陥ってしまう
逆に勢いを得たのは島津。南から津波のごとく北上し、あれよあれよというまに、地図を書き換える。大友家の広い領土も次々と呑み込まれ、うう、もう後がない。そこで、宗麟はすかさず豊臣秀吉に救援を依頼。もともと、九州を統一して頭を下げにいこうとでも思っていたのか。自らが行った日向遠征のときとは逆に、「九州征伐」の大義名分を「献上」した。
秀吉軍が島津軍を撃退して、結果的に大友家は豊後を安堵され、宗麟自身も日向に隠居領を与えられるが、それは辞退。自分の人生に人区切るつけると、翌年に宗麟は津久見の寓居で生涯を終える。
その後、大友家は長男義統(よしむね)が継ぐが、朝鮮出兵で失態をおかし、領地没収。「関ヶ原の戦い」では西軍(反徳川方)につき、豊後で兵を挙げるが…。最後は出羽に流されて死去。
大友氏の嫡流は途絶えてしまった。
ちょっとだけ九州の覇王
大友家といえば、名家である。家柄は源氏の直系といわれ(実際は違うらしい)、血統を重んじる中世にあって、九州古来の御家人にとってはちょっとばかしキラビやかな存在であった。鎌倉時代はじめに相模から領地である豊後に移住すると、元寇や南北朝の争乱などでは、その時代の当主は九州のキーマンとなった。
宗麟の時代、これほど家系が古く、確かな一族は武田氏や島津氏、佐竹氏などごくわずか。成り上がり者につぶされていく名家が多い中、それでも生き残った血統はさらに高貴になっていく。
その大友家の全盛期を築いたのが、宗麟だ。
21才で家督を継ぐと、連戦連勝。宿敵・肥後の菊池氏を滅ぼし、門司で毛利氏と争い撃退。一時は、豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、四国の伊予半国を領有する大領主になった。
だが宗麟が「この世の春」を謳歌したのは、わずかな期間でしかない。
肥前の龍造寺氏をはじめ家臣が次々と離反するなど、栄光は長く続かない。これだけのパワーを握りながら、離れていく家臣が多いとは人間的に何らかの欠陥があったことは明白だ。
大友やばし! が決定的気になったのは、島津攻めのために日向に兵を進めたとき(耳川の合戦)。倍する兵力でありながら、島津に返り討ちにあった。九州を併呑する勢いが一気に失速し、あれよあれよという間に窮地に陥ってしまう
逆に勢いを得たのは島津。南から津波のごとく北上し、あれよあれよというまに、地図を書き換える。大友家の広い領土も次々と呑み込まれ、うう、もう後がない。そこで、宗麟はすかさず豊臣秀吉に救援を依頼。もともと、九州を統一して頭を下げにいこうとでも思っていたのか。自らが行った日向遠征のときとは逆に、「九州征伐」の大義名分を「献上」した。
秀吉軍が島津軍を撃退して、結果的に大友家は豊後を安堵され、宗麟自身も日向に隠居領を与えられるが、それは辞退。自分の人生に人区切るつけると、翌年に宗麟は津久見の寓居で生涯を終える。
その後、大友家は長男義統(よしむね)が継ぐが、朝鮮出兵で失態をおかし、領地没収。「関ヶ原の戦い」では西軍(反徳川方)につき、豊後で兵を挙げるが…。最後は出羽に流されて死去。
大友氏の嫡流は途絶えてしまった。
● 執筆者: 高野龍也
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