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赤塚不二夫の訃報をほっておけないのだ。

2008年08月04日

天国へ行くのだ。
これでいいのだ。
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「人生はギャグ」を信条に生き、
酒を愛した自由人でもある漫画家の赤塚不二夫さんが2日、
その天真らんまんな生涯を閉じた。



これは、へそ社長の鎮魂である。



1962年から連載された「おそ末くん」には、
「シェーッ」のイヤミ、「チビ太」「ハタ坊」「ダヨ~ンのおじさん」に「デカパン」。
1967年から連載された「もーれつア太郎」には、
「ニャロメ」に「ベシ」「ケムンパス」「ココロのボス」。
そして、「天才バカボン」には、
「レレレのおじさん」「ウナギイヌ」「目玉つながりのおまわりさん」。
目が眩むほどのキャラクターとギャグが、
60年代後半か70年代にかけて、テレビから放映された。



60年安保の敗北のあとの高度経済成長のニュース。
反安保・反体制の全共闘世代が「モーレツ」な企業戦士となる一方で、
70年安保・大学改革など、なお反体制の運動のニュースが吹き荒れる。



そんな中で・・・
「タリラリラーンのこにゃにゃちわ」で・・・。
「西から昇ったお日様が、東へ沈―む」で・・・。
「この野郎め=ニャロメ」で・・・。
「これでいいのだ」なのである。
当時、小学生の私は、社会の難しいことは理解できないながらも、
この漫画家の戦い方は、なんかようわからないが、かっこいいと感じていた。



何よりも、その漫画を書いているのが、
自分の親父=国家公務員と同世代であることを、
中学生になって知ってショックを受けたのを今でも覚えている。



天才バカボンのエンディングテーマ♪には、
バカボンのパパは、41才の春だという一節があるが・・・。
当の私は、もう、45才の夏を迎えている。
あの小学生の当時には、
わからなかった赤塚不二夫のかっこよさについて、
少し語れる年になったので・・・
赤塚氏の訃報を聞いたこの機会に整理してみるのココロー。




「レレレのおじさん」は、昔は、街に1人は居た「変なおじさん」だ。
目玉つながりのおまわりさんは、やたらめったら拳銃をぶっ放す。
バカボンのパパは、
宇宙人や、
ホームレスのおじさんや、
わけのわからない汚いウィルスなど、
異形の人達といつも仲良し。
いまのテレビの倫理規定では、決して放映が許されない者ばかりが登場する。
倫理規定の緩い良い時代だったと言えばそれまでだが・・・
高度成長の時代・・・
西欧の文化に影響され、反体制のための運動が、
「知性・教養主義」に走ろうとする中、
その異形のキャラクター達は、「反知性主義」を体現していたと見る。



あくまで不条理であり、下町的であり、人情的。
全部が、許される世界を、最後には描いてみせていたように思う。
赤塚不二夫なりの「反権力」「反体制」の表現の極みが、
「もーれつア太郎」であり、「天才バカボン」なのである。



「これでいいのだ」のギャグの裏には、
赤塚不二夫自身の時代に対しての「これでいいのか?」があったのだ



当の時代に駆け抜けて生きた三島由紀夫は、
「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。「もーれつア太郎」は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している」(ウィキペディアより)と絶賛しており、当時、学生たちの間にも全共闘ニャロメ派というのができたという話も聞く。



しかし、赤塚不二夫自身には、それほどの「反体制的」表現活動の意識も薄く、いろんな評伝に出てくる赤塚氏は、シャイで、自然体の、とてもヒトの良いおじさんである。

著書「赤塚不二夫のおコトバ」には、
気負いのない力の抜けたエピソードが書かれている。その中に、こんな一節がある。
赤塚先生が『天才バカボン』で、真っ白のページや実物大漫画などの実験的な漫画を描いておられたことについて尋ねたときの応答です。手塚 眞(ヴィジュアリスト)……赤塚家の居間にて/平成12年
「あの頃ね、読者と対決していたんだよ。読者がつまんないというから、じゃ、こういうのはどうなんだと出して、でもつまんないって。じゃ、コマが真っ白な漫画を出すよって出して。そしたら、面白いって。」
理屈や知性で、漫画を書いていない。まさに、天才だったのだと思う。



では、その天才は・・・どのようにして生まれたのか。
ウィキペディアによると、赤塚不二夫は、1935年、満州国熱河省に生まれ。「バカボンのパパ」のモデルであり[1]憲兵であった父親は第二次世界大戦終戦直前にソビエト軍に連行されてしまい、残された家族は1946年に母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げるとある。
父親がシベリアに抑留されてから、解放されたのはその4年後。
12才までの多感な少年時期のほとんどが、
想像を絶する過酷なものであったことが予想される。



「これでいいのか?」と幼少の赤塚不二夫が問うても、
何も変わらない抑留の状況。
時代も、体制も、何も動きはしないっ。



子供ながらに、この厳しい状況を乗り切るには、
きっと「これでいいのだ」と笑い飛ばすしかなかったのだっ。
赤塚不二夫にとって、
ギャグや、笑いは、「生きている力」そのものだったのだっ。



「チビ太」「ハタ坊」に、
「ダヨ~ンのおじさん」「デカパン」に、
「目玉つながりのおまわりさん」に、
印象に残っているのは、両足を見えないくらいバタバタさせて走る姿。
みんなジタバタしているのである。
当時の反体制で戦う若者達のジタバタした状況と
重ね合わせて解釈すると面白い。
「これでいいのか?」
愛を込めて「これでいいのだ」なのであるっ。
その時代、それもひっくるめて、全部が、「生きている力」だったから。



・・・で、2008年現在・・・これでいいのか?である。
全然、良くないっ。
体制や権力に対して、誰もジタバタしないっ。
若者達の「生きている力」が、見えてこないっ。
「これでは、良くないのだっ」。



「東から昇ったお日様が、西へ沈む」と体制側が言う常識を、
ふんふんと真に受けていたのではいけないのだっ。



「これでいいのか」と、問い続け、ジタバタしたい。
そして、「これでいいのだ」と言えるくらいの「生きてる力」を共有したい。
運動ができるわけでもなく、漫画が描けるわけでもないが・・・
こういう想いを、ひとりでも多くの人に伝わる努力はしたいっ。


それが、45才になった夏の、赤塚不二夫先生の鎮魂である。

執筆者: 中村修治/へそ社長