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チャレンジドって・・・いったい?

2010年04月15日

熱いラーメンに、チャレンジド・・・。
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鳩山首相の施政方針演説があったのは数ヶ月前。
「命を、守りたい」と始まったその演説には、賛否両論あるのだが・・・。
個人的には、次のフレーズが耳から離れない。その点について、強く異議ありである。

「若者、女性、高齢者、チャレンジドの方々など、すべての人が、孤立することなく、能力を生かし、生きがいや誇りを持って社会に参加できる環境を整える・・・」。


えっ?チャレンジドって?


2月11日には、首相官邸で開かれた中央障害者施策推進協議会であいさつし、日本では制定されていない障害者差別禁止法について、「米国をはじめとした世界の多くの国が実践をしている。新政権としては前向きに取り組んでいきたい」と述べ、法整備に努力する考えを強調。さらに、「障害者」という呼称についても見直すよう提案。
「障害者という言葉よりも、チャレンジドの方が望ましい。いろいろと新政権で考えていかなくてはならない」と語った。という。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200912/2009121100726
※ニュース「障害者差別禁止法に前向き=鳩山首相」より


恥ずかしながら、このニュースを知るまで「障がい者」の方を「チャレンジド」と呼ぶ動きがあることを私は知らなかった。「障害」という言葉は、そもそもが差別的だということで、表記が「障がい者」となったり「障害のある方」となったり「ハンディキャッパー」となったりしていることは目にしてきたが・・・「チャレンジド」とは、知らなかった。

どうやら障害のある人を支援する施設や有志の方々には、もう一般的に流布している考え方のようで、福祉団体や施設名としても使われている。例えば、障害者就労移行支援  チャレンジドのホームページには、次のように解説されている。


「チャレンジド」とは、障害を持っている人をあらわす、アメリカの言葉です。正しくは、「ザ・チャレンジド(The Challenged)」といいます。
「挑戦すべき課題や才能を与えられた人々」という意味がこめられています。「すべての人間は、生まれながらに自分の課題に向き合う力が持っている。
しかも、その課題が大きければ大きいほど、向き合う力をたくさん持っている」という哲学に基づいています。

なるほど・・・。

この言葉が日本で使われ出したのは、1990年代の初頭社会福祉法人プロップ・ステーション理事長の竹山ナミさんの活動が始まりであったらしい。そこのホームページには、次のように明記されている。少し長いのだが、ちゃんと読んでいただきたい。
http://blhrri.org/info/koza/koza_0103.htm

チャレンジドという言葉の意味するもの 私たちは「障害者」という言葉ではなく「チャレンジド」を使っている。この「チャレンジド」という言葉は15年ほど前にアメリカでうまれた言葉である。アメリカでは障害者をハンディ・キャッパーとかディセイブル・パーソンという言葉で呼んでいたが、それはできないとか無理という、マイナス(負)を 意味しているので、それに代わる新しい言葉をつくろうということから「ザ・チャレンジド」という言葉が使われるようになったと教わった。ちょうど阪神淡路大震災直後のときであった。

プロップ・ステーションの本部は東灘区の六甲アイランドにあり、私の家も震災で全焼し、仲間も全員被災者になってしまった。普通は何か困ったこと が生じた場合、役所に相談に行くというのがほとんどであるが、その市役所・区役所も被災し電車も不通になるなど、みんなが被災者になってしまったのであ る。そのような状況でどのようにして助け合い励ましあって復興していけばいいのかという課題に直面していたときに在米のプロップ・ステーションの支援者か ら「チャレンジド」という言葉を教えてもらった。「チャレンジャー」ならば「挑戦者」だけど「チャレンジド」というのは「チャレンジ」の受動態で、「(神から)『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格を与えられた人」という意味であり、さらに日本で言う「障害者」だけを意味するだけではなく、震災復興に立ち向かう人もこの範疇に入るという。つまり「チャレンジド」という言葉のなかには「すべての人間には自分の課題に向き合う力が備わっている」、だから課題が大きいときにはその向き合う力もたくさん与えられるという哲学がこめられているという。その言葉に私はとても勇気づけられた。
以来私たちは「障害者」のことを「チャレンジド」と呼ぶようになり、「チャレンジドを納税者に出来る日本」というキャッチフレーズもそこから生まれてきたのである。

[b]ただ、誤解のないようにしておきたいのは、決して「障害者」は差別用語だから使うな、「チャレンジド」を使えということではない。 「チャレンジド」という言葉の持っている意味と考え方、それを少しでも広めていきたい、あるいは私たち自身がチャレンジドだといえるような生き方をしたい、ということなのである。


http://blhrri.org/info/koza/koza_0103.htm
※プロップ・ステーションホームページより抜粋

福祉の現場や障害のある方々が、障害者って呼ばれるのが嫌だから「チャンレンジド」って呼んでくださいなんて一言もない。「マイナスをプラスに転換するための表層的な言葉」ではなく、本当に頑張っている人達のための言葉であり、頑張っている人達を本当に支援したいと願っている人達の中で流通する「プラスにプラスを付加するための意志ある言葉」である。

その考え方に乗って、「障害のある方々」のすべてを「チャレンジド」呼びましょうと提唱する政治家の考え方は、あまりに考えが稚拙で、配慮にかける・・・。


障害を持った方々が、「これは自分に与えられた使命」なのだと思えるようになるまでの葛藤や困難をどれだけ想像しているのか。そういう強い人達は、自分のことを「チャレンジド」なんて、のほほんと暮らしている健常者に呼ばれたくないはずだ。


健常者が何気に障害者の方々にかける「頑張ってね」という励ましが、障害のある方々にとって、どれだけ理不尽で重いものかを想像したことがあるのだろうか。


チャレンジもしていない一般市民が、障害をもった方々を「チャレンジド」と呼んでいる社会の深い溝と残酷さが想像できないのだろうか。

政治家も、健常者も、神ではない。
障害をもつ方々と同じ人間である。

そういう意味では、みんなが「チャレンジド」なのである。
そして、「チャレンジド」は、第三者が使う言葉ではない。
苦難苦闘乗り越え、立ち向かっている人達だけに芽生える個人的境地だ。

決して一般的な呼称ではない。
それを呼称にした途端に、差別の溝は、もっと拡がる。
社会は、さらに残酷に、ゆがむ・・・。

何度も言うが・・・政治家は、神ではない。
人々に「使命」を与えるのが役割では、決してない。
国民のひとりひとりが生きてきた「使命」を見つけることのできる社会基盤をつくるのが仕事であってほしい。

障害者差別禁止法を定めるのであるのなら・・・
自分が犯罪の加害者になる可能性。
自分が障害者になる可能性。
自分に理不尽な死が訪れる可能性。
そんな、人間なら平等に持っているであろうコトへの無自覚に、政治家自らが気づくことが、先ずは大事なのではないかと考える。政治家の言うところの「チャレンジド」の議論は、どう考えても、不毛である。

執筆者: へそ社長